ヨルシカ『プレイシック』歌詞の意味を考察!

ヨルシカの楽曲『プレイシック』は、2025年12月22日にリリースされた楽曲です。

この曲は配信前から、ダイハツ ムーヴ キャンバス ストライプスTV CMソングとして起用されている楽曲で、ファンとしては待望のリリースとなりました。
ヨルシカといえば、楽曲の完成度もさることながら、毎回話題となるのは歌詞。
小説のようで一回聞いただけではちょっと理解が難しい、でも何回も聞いて歌詞の意味を探りたくなる、そんな曲が多いです。
今回はそんなヨルシカの楽曲『プレイシック』の歌詞の意味を考察していきます。

この記事の目次
ヨルシカ『プレイシック』歌詞の意味を考察

ここからは、ヨルシカの楽曲『プレイシック』の歌詞の意味を考察していきます。
『プレイシック』とは?
まずはタイトルのプレイシックですが、英語で表すと「play sick」
意味は「仮病を使う」「病気を装う」といった意味になります。

逃げ場を探しながら歩き続けている
全部嫌になった 僕たちは憂いた 38℃の体温みたいに
1番のAメロの部分は、精神的な疲労や鬱屈が歌われています。
どういう理由かはわかりませんが、何もかも全部が嫌になったということは、誰しもが一度は経験したことがあるのではないかとも思います。
嫌な出来事や上手くいかないことが続いたりすると、そういった気分になりますよね。
「38℃の体温みたい」とは、高熱すぎないですが正常ではなく、だるくて思考が鈍る、そういった状態なのではないかと思います。
実際に発熱しているのではなく、全部嫌になったという感情が病気のような状態になっているということを表しています。
明日は晴れますかね それよりやっぱり、何処かへ行きませんか 恋をしていました あの頃の僕たちに
「明日は晴れるか」という問いかけは、未来への期待を込めてのものだと思いますが、どこか弱い。
希望を持ちきれない弱さがにじんでいるように感じます。
ただ「それより何処かへ行きませんか」と話を変えていることから、単純に今の状況をよくするだけではなく、今いる場所や状況から離れたいといった、現実逃避のような感情が分かります。
そして昔の自分達のことが好きと、過去に戻りたい、過去の方がよかったといったような、過去への憧れが感じられます。
昔の自分達とは、まだ傷ついたりせず、自由で世界を疑うこともなく、未来に希望を持てていた頃のことなのかなと思います。
晴れの合間に 街を歩いてるみたい ほらね、雨が止んだぜ これさアカペラみたいだね 全部嫌になるくらい 露骨なリピートで
完全に晴れてはいないけど、ずっと雨でもない。
希望と絶望の間を行ったり来たりしている今を表しています。
街を歩く=日常は続いている
だけどど、心は晴れきらない。
「アカペラみたい」という比喩は、伴奏(支え)がなく裸の声だけで成り立つ、不安定ですがリアルな状態ということなのかなと思います。
「全部嫌になるくらい 露骨なリピートで」と、結局また「全部嫌になる」ループに飲み込まれてしまっています。
救われそうで救われきらない、希望が見えた瞬間に、また現実が繰り返されるといったことが表現されています。
不器用でも誰かと生きようとする姿
眠った 起きた 僕たちの憂いは なんて言うか、針みたい
「眠った/起きた」は、生きている最低限のサイクルだけが続いている状態で、充実でも成長でもなく、ただの反復の日々を表現しています。
「憂いは針みたい」という比喩は、、慢性的に神経に触る苦しさを表しているのかなと思います。
38℃の体温よりも、さらに直接的な「痛み」へと変化しています。
明日は雨ですかね それより咲いた向日葵を探しませんか 恋をしていました 切れかけの電球に
ここでは「晴れ」ではなく「雨」。
希望の見通しが、さらに曇っている状態ですね。
向日葵は、太陽を向いて咲く花で、夏・生命力・希望の象徴なので、雨が降ると分かっていても、
光を向いて咲くものを探したいという願いが込められているのかなと思います。
「切れかけの電球」は、不安定でいつ消えるか分からない、それでもまだ微かに光っている状態で、今にも消えそうな希望を表しているのかなと思います。
そんな状態に恋しているので、長く続かないと分かっているものにあえて惹かれてしまう心が示されているようです。
月の灯りで 街を泳いでるみたい 人と人の隙間を君と、いびつなクロールでね 全部嫌になるくらい!
ここでは太陽ではなく、月で、間接的で弱い光しかありません。
「歩く」ではなく「泳ぐ」という表現は、地に足がついておらず彷徨い、前に進むのが難しい状況を表しています。
社会に完全には溶け込めず誰とも完全に重ならない、そんな状態を「人と人の隙間」と表現し、そんな狭い場所を不器用なクロールで必死に泳いでいる状況が思い浮かびます。
全部嫌になるくらいと歌いますが、嫌でも生きてそれでも探している、誰かと進もうとしている状態を表現しています。

救いの歌でも絶望の歌でもない
晴れに傘を掲げて 僕ら祈ってるみたい 日々と日々の隙間で たまに引く風邪みたいにね
本来、傘は雨の日に使うものですが、それを「晴れ」に掲げています。
晴れ日のような調子のいい日があっても、いずれまた来る雨のような良くない出来事に不安を抱え、もしもの時の予防策として、またテルテル坊主のような祈りも込めて傘をさしているようです。
先程の人と人の隙間ではなく、今回は日々と日々の隙間
少しでもいい日を見つけながら活動し、悪い日に怯えながら生きていく状態を表しています。
ここで出てくる「風邪」は、誰にでも起こる、深刻ではないと思われがちでも確かに辛い病名がつかない心の不調を指しています。
ただの昼間に 街を歩いてるみたい ほらね、雨が止んだぜ これさアカペラみたいだね
特別な事は何もない昼間に街を歩いている、最初の方の「月の灯り」「泳ぐ」という不安定な歌詞よりも、少し落ち着いてきている感覚を感じます。
月曜日の僕ら晴れやか いわゆる仮病でね
月曜日は、休みが終わってまたいつも通りの社会が始まるといった、現実的なイメージがあります。
晴れやかと歌っていますが、最後には仮病と歌っています。
つまり「晴れやか」に見せているけれど、それは本心ではなく「仮病」であって、元気なふり、問題ないふり、社会に適応している演技をしているということです。
主人公は完全に治ったわけではなく、隠すことを覚えたということなのかもしれません。

まとめ

今回はヨルシカの楽曲『プレイシック』の歌詞の意味を考察してきました。
プレイシックは救いの歌ではないですが、絶望の歌でもない。
良いことがあったり悪いことがあったりする普通の日常を歌い、その中で上手く適応していこうとする人々のことを歌っています。
おそらく多くの人に当てはまる、思い当たることがあると感じられる歌詞になっていて、多くの人に寄り添う楽曲になっていると思います。
ゆったりと空気のように聴くことが出来る名曲で、これからも飽きることなく聴くことが出来そうな楽曲です。








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