Vaundy『極楽浄土』歌詞の意味を考察!いつの曲で配信やCDはある?

Vaundyさんの楽曲『極楽浄土』は、ファンの間では有名な隠れた名曲として知られています。

ライブでは披露されたことのある楽曲ですが、広く世間に知れ渡っている楽曲かというとそうでもなく、配信やCDのリリースはあるのかといった疑問を持つ人も多いようです。
タイトルも『極楽浄土』という仏教の世界の言葉で、歌詞の意味はどのような意味なのかも気になりますよね。
そこで今回は、Vaundyさんの楽曲『極楽浄土』の歌詞の意味や、配信、CDの情報も紹介します。

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この記事の目次
Vaundy『極楽浄土』配信やCDの情報について

ここでは、Vaundyさんの楽曲『極楽浄土』について、配信やCDのリリース情報を紹介します。
『極楽浄土』配信やCDのリリースはない
Vaundyさんの楽曲『極楽浄土』ですが、サブスク等での配信でのリリースやCDのリリースはありません。
過去に2022年の武道館のライブで披露され、その後もあまりライブで披露されていないようです。
2026年の東京ドームのライブでは披露されたようですね。
CDアルバムの隠れトラックか何かかなと思ったりもしましたが、そうでもないようでした。
今後もリリースされる予定も今のところはないようです。

Vaundy『極楽浄土』歌詞の意味を考察

ここからは、Vaundyさんの楽曲『極楽浄土』の歌詞の意味を考察していきます。

「人生の流れ」を表現
生まれたその時から 声を上げ泣いた あれは産声か 歓喜の声か 揺れる痛みの波 受ける青年期 涙を流すには 歳をとりすぎた
「誕生」という“人生のスタート”の場面から始まります。
産声=生存の証、苦しみの始まり
歓喜の声=この世界へ来たことへの祝福
つまり、人生の始まりは「祝福」なのか、それとも「苦しみの宣言」なのかという根源的な問いが込められています。
生きることは喜びか、それとも痛みか。
その答えは最初から曖昧だというニュアンスですね。
その後人は成長し、
「揺れる痛みの波」=思春期・青年期の葛藤、不安、劣等感
「涙を流すには歳をとりすぎた」=子供のように素直に泣けない、弱さを見せられない、“大人”になってしまった自意識
つまり、傷ついているのに、もう無邪気には泣けないという「感情の抑圧」や「社会的な仮面」が見えます。
今日で何度目の夜だったか
夜は、孤独、自問自答、眠れない時間、死や虚無を考える時間でもあります。
「何度目かわからない」というのは、同じような苦悩を繰り返していることを示しています。
人生は前に進んでいるはずなのに、心は同じ場所を回っている感覚のようです。
僕の短所をその骸のように詰め込み 僕の長所をその終わりの夜に被せてくれ
「骸(むくろ)」=死体
短所を「骸のように詰め込む」というのは、僕の欠点や弱さは、 死と共に閉じ込めてほしい、 終わりと一緒に処理してほしいと歌っています。
そして「長所をその終わりの夜に被せてくれ」と、まるで棺に布をかけるような表現です。
最後は良い部分だけで包んでほしい
せめて終わるときくらいは美しくありたい
自分の価値を肯定してほしい
といった意味が込められているように感じます。
残っている他者への期待
凍てつく時間の風 浴びた青年期 声を上げるには 乾きが多すぎた
前回は「揺れる痛みの波」でしたが、今回は風で、しかも「凍てつく時間の風」。
時間が経つほど冷たくなる現実
社会の無情さ
理想が凍っていく感覚
感情が摩耗していく年月
という意味があり、「浴びた」という表現は、自分から求めたわけではなく、ただそこに立っていたら受け続けてしまったものという感じです。
乾きは
涙が枯れた
感情が枯渇した
助けを求めるエネルギーが残っていない
心がすり減りすぎた
つまり本当は叫びたいのに、叫ぶ水分すら残っていない。
激情ではなく、疲れきった沈黙、絶望の静けさです。
これで何度目の夜だったか
前回は「今日で何度目」で、今回は「これで何度目」。
微妙な違いですが、
「今日で」=時間の経過の確認
「これで」=同じ状況の繰り返し
より“ループ感”が強くなっています。
終わりそうで終わらない夜、同じ孤独の反復を表現しています。
僕の短所をその骸のように詰め込み 僕の長所をその終わりの夜に被せてくれ
ここは繰り返しですが、前の文脈と合わせると意味がより深まります。
冷え、乾き、沈黙を経た後でのこの願い、これは単なる自己否定ではなく、
「この生のままでは整理がつかない」
「せめて終わる時だけは整えてほしい」
という願いのようにも読めます。
骸=剥き出しの存在
長所を被せる=弔い・美化・救済
つまり、生きている間は評価されなくても、最後だけは肯定されたいという心の叫びにも見えます。

人間の本能的な願い
美しいものに名前がつくなら 名前のない愛でいいから 嫌いなものが真実なら 間違った愛でいいから
普通、人は「美しいもの」に名前をつけたがります。
恋、友情、家族愛、理想、正義等です。
でもこの主人公は、名前なんていらない、定義されなくていいと歌っています。
これはつまり
ラベルに縛られない愛
社会的に正しいと認められなくてもいい愛
説明できなくてもいい感情
を求めているようです。
“理解されなくてもいいから、ただ存在してほしい”、そんな願いが見えます。
もしこの世界の「真実」が、冷たくて、残酷で、利己的で、打算的なものであるとしても、それでも僕は“間違っている側”でいいと歌っています。
これは
正しさよりも温もり、真実よりも救い、現実よりも幻想を選ぶという決意にも読めます。
“間違っていてもいいから、愛が欲しい”ここがこの歌詞の一番人間らしい部分ですね。
僕は何度も踊らされるように騙され 「せめて」と何度もこの話をするよ
「踊らされるように」という言葉から、
自分の意志というより流されている
世間や誰かの言葉に振り回されている
期待して裏切られる
と読むことが出来ます。
そして「せめて」と歌っていることから、せめて理解してほしい、優しくしてほしい、せめて最後くらいはといった“最低限の救い”を求める言葉に感じられます。
僕の短所をその骸のように詰め込み 僕の長所をその終わりの夜に被せてくれ
ここまで読むと、生きている間は、誤解され、騙され、踊らされ、名前を与えられますが、最後ぐらいは「良い部分だけで包まれたい」切実な願いが込められているというように感じる歌詞に変わってきます。
これは“死にたい”というより、「ちゃんと弔われたい」「価値のある存在だったと認めてほしい」という承認欲求に近い意味が感じられます。
これで最後の 極楽浄土
「極楽浄土」は本来、仏教でいう“苦しみのない理想郷”のことですが、この歌詞の流れで言うと、それは
死後の世界
すべてから解放された場所
評価も苦しみもない場所
もう騙されない場所
とも読めます。
また、これで最後のと言っていることから、何度も夜を繰り返してきた、何度も「せめて」と願ってきた。
そして、“これで終わりにしたい”という祈りを歌っているように感じますね。

SWITCH Vol.42 No.9 特集 Vaundy

まとめ

今回は、Vaundyさんの楽曲『極楽浄土』のリリース情報や、歌詞の意味を考察してきました。
『極楽浄土』は、サブスクでの配信やCDのリリースはされていません。
限られたライブのみで数回披露されただけの、隠れた名曲となっています。
歌詞の意味としては、絶望の歌のようでいて、実はものすごく“愛を求めている歌”といった感じがします。
どちらで捉えるかで、救いの歌にも、別れの歌にも変わるような印象があります。
リリースされていない楽曲なので、なかなか聴くことが難しい楽曲ですが、名曲なので聴くことができる機会があれば、是非じっくり噛みしめて聴きたい楽曲だと思います。







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